アジアオリンピック(第3回アジア大会東京)金メダリスト松王清志
第二章 関西大学へ進学~そしてアジアオリンピック
Part.1 上京
episode 1 私は吉井川で遊んでいましたから生まれつき体が俊敏でした昭和10年に豊村浜で生まれ、豊尋常小学校卒業、西大寺中学校では野球をしていましたが、二年生の時に体操部の先生から、器械体操をやらんかと誘われて器械体操を始めました。先生は県下で優勝したこともある優秀な先生でした。
Part.2 西大寺高校へ進学して
episode 1 母への感謝と西大寺高校の思い出を胸に蒸気機関車に乗り込むみました。岡山駅から大阪へ行くのに6時間もかかりました。蒸気機関車で途中の駅に物凄く長く停まったのを覚えています。特に姫路には長く停まっていました。お袋は帰って来られるのか、とても心配していました。
episode 2 当時はまだ蒸気機関車で岡山駅から大阪まで各駅停車で4~6時間かかったと思います。岡山から三石トンネルを抜けて相生へと、西大寺がら遠く離れていくと、3年間のバドミントン生活が走馬灯のように思い出されました。まず、体作りだと思いとにかく走りました。当時プロ野球で国鉄スワローズで大活躍していた金田投手は、スポーツマンの基礎体力は脚と腰を強化すること、それには走ることが一番良い。と言われていました。備前富士と言われた芥子山の往復、それでも物足りずの西大寺~山陽学園まで16キロの往復、山陽学園ではシャトルがただで使用でき、女子の香りの中で練習できる、ダブルトレーニングでした。西大寺高校体育館西校舎はザラザラ、ガタガタといういつも穴のリペアをしていた古い体育館がホームグラウンドでした。窓ガラスが割れて風が入り、勿論、電気は無く、それでも練習がしたくて、コートの四か所から後輩に、トレーニングということで自転車を踏ませて、その明かりでシャトルを打ち合ったこと、練習が終わって校庭の前の店で申し訳程度に付いているイチゴジャムのパンと水道の水の美味しかったこと
そして岡山を立つ前にバドミントン部のキャプテンだった行司織行君の言葉「大学へ行けない人すら多くあるのに、母の苦労を忘れずに、母ありてこその君だからな」と。冷やしあめと回転焼きで生計を立てている母親、下宿代、学費、大会での遠征費、一か月6,000円は必要だ。これから4年間の親不孝しなければならない。
episode 3 今では笑い話ですけど、西大寺には信号がありませんでした。キャプテンと梅田の繁華街を歩いていて信号が渡れませんでした。「松王、こりゃ、青になったら歩くんじゃ。渡れ!」今でも関大のバドミントン部で私の話が出るようです。