西大寺グランドホテル
prologue
戦後まもなく西大寺浜で生まれた松王清志さんが、東京オリンピックのプレ大会として東京で開催された、アジアオリンピック(第3回アジア大会東京)のバドミントン競技で、見事に金メダリストとなられ、その後に世界65か国を駆け巡りゴーセンをガットの業界の中で世界シェアNO1の企業にまで育てられた人生を、“ジョニ黒”をいただきながら4時間半熱く語ってくださいました。今でこそジョニ黒は数千円でスーパーでも買えますが、私が幼いころは、それこそ高嶺の花で勿論、若者などが飲める酒ではありませんでした。今晩のジョニ黒は40年前に数万円で買われた年代物の“ジョニ黒”です。水割りなんかではなくて、カチ割氷の“ロック”でいただいています。
本題に入る前に松王清志さんと私の出会いについて、松王さんのご紹介をしながら少しお話しさせていただきます。
松王さんは10数年前に郷里の西大寺浜に帰ってこられました。ご存じない方もいらっしゃるでしょうからご紹介しますと、昔の永安橋の橋元にあって、回転焼きやかき氷を売っていたお店で“ミドリさんの冷やしあめ”と聞いたら、年配の方は思い出していただけるのではないでしょか。松王さんのお母様のことを浜の人は“ミドリさん”と呼んでいました。
私が松王さんと実際にお会いしたのは10年ほど前ですが、60年も前からバドミントンをしながら飛行機で世界を飛び回っている松王さんのことを知っていました。夏になると父はよく“ミドリさんの店”に、冷やしあめを飲みに連れて行ってくれました。当時まだ小学校に上がる前の私には、生姜の利いた“冷やしあめ”は刺激が強く、もっぱら餡子とお団子に蜜がたっぷり掛けられた「氷ぜんざい」を好んで食べていました。時々団子を一つおまけしてくれたり、蜜をひとすくいたくさん掛けてくれて、ミドリさんは私を可愛がってくれました。
そんな、ミドリさんのお店にはアフリカの国のどこかの部族が作ったと思われる素朴なお面が飾ってありました。今ではインポートショップに行けは、外国の珍しい物産品がたくさん並べてありますが、当時の日本に何故アフリカのお面があるのか子供心にも不思議でなりませんでした。
氷ぜんざいを食べているとミドリさんはいつも松王さんが今ごろ世界のどこの国を飛んで旅しているかを嬉しそうに、けれど少し心配そうな顔つきで話してくださいました。当時は1ドル360円の時代で、庶民が海外旅行に行くことなど夢のまた夢の時代でした。外国のことを知るには「兼高かおる世界の旅」で兼高さんがパンナム(今は名が変わりましたがアメリカの航空会社)で世界を旅する番組でしか、外国の様子を知る機会は無かったように思います。そんな時代にラケット一本持って世界中を旅する松王さんに憧れないはずがありませんでした。
幼い私は“スポーツ選手はパンナムに乗って海外旅行に行ける”と思い込み、松王さんを想像しながら、白いズボンと赤いジャケットを着て羽田空港のタラップから飛行機に乗り込む自分の姿をイメージしていました。
世界旅行をしたいとの思いから、小学校に上がるときに買ってもらった勉強机には、天板に世界地図が描かれている机を買って貰いました。
【第一章生い立ち~関西大学卒業~】
part1. バドミントンとの出会い
私は吉井川で遊んでいましたから生まれつき体が俊敏でした昭和10年に豊村浜で生まれ、豊尋常小学校卒業、西大寺中学校では野球をしていましたが、二年生の時に体操部の先生から、器械体操をやらんかと誘われて器械体操を始めました。先生は県下で優勝したこともある優秀な先生でした。
part2.西大寺高校へ進学して
episode1
~器械体操からバドミントンへ~
西高のバドミントン部は二年上の先輩が創部されて部活動はしていましたが、校内には俗に言う“やーさん”と言われるような連中も多くいました。その生徒らは「ちょっとやらせ―」と言ってコートに下駄で上がって来て、遊んでいましたが、おおよそバドミントンと言うようなものではありませんでした。部員の中にも試合に行ったら他校の女性のラケットを持って帰る。それを可哀そうだからと私が返しに行く。これじゃいけないと荒れた状態のバドミントン部を大改革すると決意し、それからは凄い練習をしました。
episode2
当時は当たりまえだった“うさぎ跳び”をしたりして、今ではやっちゃいけないような練習方法も当たりまえのようにしていました。芥子山までは毎日走りました。夜は自転車を体育館へ上げて四隅から後輩に自転車を踏ませて、その明かりで練習をしました。
episode3
西大寺には鐘紡にバドミントンクラブがあり、工場対抗で全国大会をやっていたこともあり、鐘紡の指導者に教えてもらうことでより面白くなり、次第に強くなっていきました。努力の甲斐あって勝つほどにより面白くなってきました。強くなるにつれてみんなが言うことを聞くようになっていきました。
episode4
2年生の最後の県大会で優勝したら、学校では何かと取り上げてくれるようになり、部員も増えていきました。3年の時には県下で断然強くなり、ダブルス、シングルス共に優勝するようになっていました。それまではそんな有様で評判があまりいい部ではありませんでしたが、何度か優勝したおかげで、校長先生も見直してくださり、いくつもの大会で優勝するにつれ、微々たる部費や旅費が次第に増えていき、3年生の時には野球部に次いで多くなっていました。
episode5
新潟インターハイの帰りに東京へ一泊することになりました。先生は映画が好きで、そのころ流行っていた“ローマの休日”を見に行こうということになりました。私は高校生になるまで映画を見たことがありませんで、人生で最初に見たのが“ローマの休日”でした。数年してこの映画を彷彿させるような出来事になるとは、このころは思ってもいませんでした。
part3 第4回西日本バドミントン選手権大会
episode1
3年の春に坐骨神経痛で思うように動けない時期がありました。このままでは試合に出られないと思う中で、お袋が風呂がいいと言うことを聞きつけてきて、朝から晩まで湯に浸かっていました。また雄神に黒住と言う針師がいて電気マッサージもしていて、これが効くと言われて一か月間通いました。
episode2
私が注目されたのは1953年に広島県福山市で開催された高校生活最後の試合であります“第4回西日本バドミントン選手権大会少年の部”でした。西日本大会で、大学1年生まで出場できるこの大会で準優勝してからです。その時まだ腰は完治していませんでしたので、一回戦ぐらいが精いっぱいだろうと思って臨んだ大会でしたが、どんどん勝ち進んで、勝つとともに調子も出てきて、とうとう決勝戦にまで進みました。誰一人予想していなかった西大寺高校の松王が決勝戦まで進出したことに私自身も驚きました。
episode3
この大会で友情、フレンドシップを知りました。勝ち進んでベスト8の時、私の腰の痛みは頂点に達していました。スマッシュが出来ない、ラケットが振れない、もうこれまでと思っていた時でした。私のダブルスのパートナー小林宏君が、広島には“鯛めし”とゆう弁当があって、鯛弁当の包装紙には鯛が跳ねた絵柄があってその裏に “サロメチール”を塗って私の腰にしっかりと貼り付けてくれて、痺れや痛さが分からないようにしてくれたお陰です。
これまで怪我という怪我はしたことはありませんでした。これがバドミントン人生でいちばん大きな怪我で、これ以降は大きな怪我はしなかったのは幸いでした。
この時のパートナーの小林宏君は後に明治大学に進学し応援団長として神宮の森にその美声を轟かせました。
episode4
岡山県勢の応援と小林君の友情で私は勢いを取り戻し、決勝戦では立命館大学一回生の相手選手にファイナルセットまで持ち込みました。しかし力尽き西日本準優勝のタイトルで西大寺高校に帰りました。この大会を立命館大学や関西大学のキャプテンやマネージャーたちが、いい選手はいないかと探しに来ていました。この大会の準優勝が後に私の人生のターニングポイントになってゆきます。
episode5
高校に帰ったら“えらいことをやった”と校長室に呼ばれました。当時の校長は今の岡山学芸館高校の森理事長のお父さんの森嘉吉先生でした。校長先生は準優勝の表彰状をずっと校長室に飾っていてくれていたのを覚えています。
part4. スカウト合戦
episode1
西大寺高校の松王の名がバドミントン界に知られてきました。それからが大変でした。今で言うスカウト合戦でした。関西の大学の殆どが西大寺の浜の家に来られました。中でも関大の主将多田康明さんが非常に熱心に入部を求められ、又関大のユニフォームが赤い紐を結んだ憧れのスタイルであったこともあり、関西大学バドミントン部を選びました。
episode2
私の父親は1945年にビルマで戦病死しています。母親一人で育てられ、又苦労をさせているので、卒業後は就職又は指先が非常に起用だったので指物大工になりたいと思っていました。担任の先生クラスメイト、母親又私自身卒業二か月前までは、大学進学なんて思ってもいませんでした。しかし、母が「自分の人生だ、自分の信じる道を自分が責任を持てるなら進んではどうだ。母にはまだ若い自分の息子のために働くことが生き甲斐だからと心から賛成してくれました。
episode3
そんなこともあり回転焼きを焼いているおふくろのところへ、関大、立命、同志社など多くの大学から「松王をくれ」とスカウトの方々が来てくれました。私は勉強もしていないし、将来は指物大工になろうと思っていたのですが、急遽大学へ行かせてほしいと、金もないのにおふくろを口説きました。親父はおらずお袋一人だけでしたが、お袋はああゆう性格でしたから、「私が回転焼きを焼いて頑張るから大学へ行きなさい」とゆうことになりました。「よし、自分の信じる道を自己の責任で歩いてみよう」ここで180度の転回をして関西大学バドン人トン部に入ることを決めました。関大に進学した理由はキャプテンのユニフォームを気に入ったからです。真っ白なユニフォームに赤いリボンを結んでいました。そのキャプテンがハンサムだったのでどうしても関大に行きたくなりました。
episode4
進学を決めたものの、一番心配していた入学試験はどうするのかの話になり、多田キャプテンは絶対に大丈夫だからと言われました。マネージャーが付け加えて「試験場に入ったら名前と受験番号は絶対に書き忘れないように、安心しなさい絶対に入れてあげるから」と言うことでした。受験の当日には試験場へマネージャーが入ってきて、私のそばに来て「松王、ちゃんと名前と受験番号は書いたか」と言われました。先生がいるにもかかわらずです。当時の体育部は学内で強かったのでしょう。その中でも関大の体育部は特に強かったと聞いています。
episode5 ~卒業式で恩師からのはなむけの言葉をいただく~
祝ご卒業バドミントンに於ける度々の優勝の輝かしい体験をこれからの人生の指針とし活躍してください。高校生スポーツマンの典型としての君の行動態度には敬服していた。スポーツマンを一人でも多くを目標に私も努力してみたいと思っています。進学の暁にも今まで通り頑張ってください。バドミントンの松王の君が全国にして渡るのを楽しみにしています。
西大寺高校西校舎体育館研究室 小林亀太
“努力”こそ人生開拓の最大の秘策である。
1954年3月の卒業にあたり、この小林先生にいただいた“努力”のこれが今日までの私の人生のベースになっています。
【第二章 ~関西大学へ進学~そしてアジアオリンピック】
part1.上京
episode1 ~蒸気機関車~
母への感謝と西大寺高校の思い出を胸に蒸気機関車に乗り込むみました。岡山駅から大阪へ行くのに6時間もかかりました。蒸気機関車で途中の駅に物凄く長く停まったのを覚えています。特に姫路には長く停まっていました。お袋は帰って来られるのか、とても心配していました。
episode2
当時はまだ蒸気機関車で岡山駅から大阪まで各駅停車で4~6時間かかったと思います。岡山から三石トンネルを抜けて相生へと、西大寺がら遠く離れていくと、3年間のバドミントン生活が走馬灯のように思い出されました。まず、体作りだと思いとにかく走りました。当時プロ野球で国鉄スワローズで大活躍していた金田投手は、スポーツマンの基礎体力は脚と腰を強化すること、それには走ることが一番良い。と言われていました。備前富士と言われた芥子山の往復、それでも物足りずの西大寺~山陽学園まで16キロの往復、山陽学園ではシャトルがただで使用でき、女子の香りの中で練習できる、ダブルトレーニングでした。西大寺高校体育館西校舎はザラザラ、ガタガタといういつも穴のリペアをしていた古い体育館がホームグラウンドでした。窓ガラスが割れて風が入り、勿論、電気は無く、それでも練習がしたくて、コートの四か所から後輩に、トレーニングということで自転車を踏ませて、その明かりでシャトルを打ち合ったこと、練習が終わって校庭の前の店で申し訳程度に付いているイチゴジャムのパンと水道の水の美味しかったこと。
そして岡山を立つ前にバドミントン部のキャプテンだった行司織行君の言葉「大学へ行けない人すら多くあるのに、母の苦労を忘れずに、母ありてこその君だからな」と。冷やしあめと回転焼きで生計を立てている母親、下宿代、学費、大会での遠征費、一か月6,000円は必要だ。これから4年間の親不孝しなければならない。
episode3
今では笑い話ですけど、西大寺には信号がありませんでした。キャプテンと梅田の繁華街を歩いていて信号が渡れませんでした。「松王、こりゃ、青になったら歩くんじゃ。渡れ!」今でも関大のバドミントン部で私の話が出るようです。
part2. 関西大学バドミントン部に入部
episode1
入学して一年間はマネージャーの家にお世話になって、2年生から吹田で下宿生活をしました。
episode2
2カ月間試合、練習から遠ざかっていた私は、75kgも体重があり、マネージャーから4月中旬からの合同練習までに68kgにして来いと言われてしまいました。私は吉井川の砂浜を走りました。ハッピーという日本犬と共に、そして初の関大合同練習の日に68kgジャストで30人の部員の前に現れました。ハッピーはアンハピーにも私よりもっとスマートになり、私とは走らなくなりました。
episode3
いよいよ西日本NO2のプレイを30人部員の前で披露するときがきました。多田キャプテンに打ってもらった打球の速いこと。ハイクリヤーがラリーがついていけない。スマッシュが取れない。ネットプレーがよくできない。馬鹿野郎、何年バドミントンやっているんだ。本当に西日本NO2か。大学と高校の差。スピードが違う。余りにも違う。私のバドは井の中の蛙か。30人の部員の前で怒鳴られた。口惜しくて一晩中泣きながら、三畳の下宿で汽笛を聞きながら、如何にしたら自分の夢を実現するのか。どうしたら出来るのか。私には幸いにも人一倍の体力がある。意地がある。そして、小林先生にいただいた“努力”の二文字がある。やろう!できる限りの可能性に真面目につまずきながらも成功には終わると言うことはない。朝6時に起き、冬は鼻の頭を真っ赤にし、夏は汗グショグショになって走り続けたのです。夜は縄跳び、素振り、腹筋運動、練習も関大だけでは満足せず、各学校をラケットを持って回りました。関大バドミントン部の4年間は関西6大学リーグ戦春7連覇。西日本のタイトルはすべて勝ち取り、全日本NO3でした。
part3. 関西六大学大会
episode1
当時の関大は関西六大学で2位か3位くらいで、同志社が非常に強かったのを覚えています。関西の大学は東京の大学になかなか歯が立ちませんでした。いい選手は関東に集中する傾向にあり、横浜が日本のバドミントンの発祥の地であったせいか横浜の出身の人はみな強かったと記憶しています。立教、慶応、早稲田の三校は非常に強かったです。
episode2
西日本の大会ではダブルスもシングルスも共に三連覇しましたが、全日本大会では2位で終わっています。どうしても勝てないライバルが立教にいました。ひとつ先輩の佐藤芳郎さんで、全日本を何連覇もした男です。実業団の時にも二位で、佐藤さんが常に上にいました。
episode3
そのころいちばん記憶に残っている試合は、バドミントンは西日本と東日本の争いですから、最後に東西対抗戦が12月にありました。これまでずっと負け続けていましたが、関大が7戦の内4勝して優勝したのが特に嬉しかったです。パートナーはアジア大会に一緒に出場した小松君で、アジア大会に行けるのがいちばん嬉しかったです。小松君も西大寺高校の野球部にいたのですが、すごく感がよさそうだったのでバドミントン部に引っ張り入れダブルスを組むことになりました。卒業までいろいろな大会で優勝したことで、ペアで関大へ行ったらいいじゃないかということになりました。小松の親父が大学へ行かさないと言うのを、田んぼを売ったらいいじゃないかと言ったら、本当に田んぼを売って彼は関大に来ました。小松康博君は卒業後、株式会社フェザーというヘヤ―ウィックの会社に入社。専務取締役として国内外で大活躍されました。
part4.アジアオリンピック(第3回アジア大会東京)選考会
episode1
学生生活最後の3月にアジア大会参加選手の選考試合がありました。西日本から8人の選手が選ばれ、その中から2人が西日本代表選手として日本で初めてのアジア大会。しかもバドミントン種目は今回から参加とのこと。8人の総当たり戦。バド生活7年間で一番厳しい戦いでした。がむしゃらに夢にしがみつく好奇心で、自信、勇気、信じられない力が生まれてきた。常にポジティブに挑戦した。私に続いて西大寺高校、関西大学と一年後輩の小松康博君も選手に選ばれダブルハピーとなりました。アジア大会に参加して関大体育誌に綴った私の記事を読んでみます。
episode2
第3回アジアオリンピックのバドミントン競技に、松王清志君(豊出身、西大寺高校)、小松康博君(中野出身、西大寺高校)が、日本代表選手6人の中へ2人も選ばれた。2人とも西大寺中学校から西大寺高校さらに関西大学へと進学している。昨年から今年の間、先輩と後輩のコンビよろしく、あらゆる大会を制覇し関西におけるNO1で、初の国際大会での活躍が期待される。日本のバドミントンの歴史は浅いが、競技水準は他国と比べて決して劣っていないと思う。日本代表として十分に活躍し、郷土の期待に応えたい。
episode3
大学を出た5月にアジアオリンピックの選考会として総当たり戦がありました。西日本からは二人の枠が割り当てられていて、小松君と私の二人が残りました。関東には四人の枠が割り当てられていましたので、4人が選ばれました。アジアオリンピックは団体戦だけで個人戦はありませんでした。
part5.アジアオリンピック(第3回アジア大会東京)
episode1
アジアオリンピック(第3回アジア大会東京)が東京オリンピックの二年前に開催されました。東京オリンピックのリハーサルでアジアオリンピックをやろうということになり、日本でアジアオリンピックをするのならバドミントンを種目に入れてくれということでバドミントンも種目に入りました。
episode2
東南アジアの国々が全て来る予定だったのですが、当時はどこの国も外貨が無く、来日できない国が出たことがとても残念でし。それでも二年後の東京オリンピックのときには状況は少し良くなっていました。
episode3
もしもの話ですが、東京オリンピックにバドミントンがあったら、ちょうど全盛期でしたからひょっとすると、ひょっとしていたかもしれなかったので、今振り返ってもとでも残念でなりません。
episode4
当時バドミントンはマイナーゲームでした。私の金メダルは団体戦の優勝の金メダルです。決勝戦はシングルを6戦、ダブルスを3戦と試合数は多かったです。予選ではシングル4戦、ダブルス2戦とかいろいろありました。決勝戦はそういう組み合わせで、9試合で5勝すれば勝ちです。この大会ではシングル戦はありませんでした。
episode5
その頃の日本は外貨も無い時代で、世界と試合をしたことがありませんでした。初めて外国人とする大会でもありました。アジアの中ではインドネシアとタイはバドミントンが国技だけあって非常に強い相手でした。決勝戦は台湾(当時は台湾のことは中国と呼んでいた。大陸にはまだバドミントンはまだ無い)でした。台湾の選手は華僑でした。インドネシアも華僑の選手がいて、タイも華僑でした。そのころ何故華僑は強いかのかを、華僑の選手はみな手首がしなやかでグリップが非常に強くて俊敏あったのでバドミントンは華僑に向いている。また華僑は目がいいのでバドミントンに向いていると言われていました。国立競技場は東京オリンピックの二年前に開催される、アジアオリンピックに間に合わせるように計画されていました。バドミントンは完成したばかりの代々木第一体育館が会場でした。監督、コーチと関東が4人と関西が2人です。
episode6
試合後のインタビューが新聞に載っています。アジアオリンピック(第3回アジア大会東京)はいよいよ聖火の日を消す。最終日は郷土出身のバドミントンコンビ松王・小松両選手が出場し、目覚ましい活躍で観衆の拍手を浴びた。体育館には皇太子さまがお見えになられた。一般席まで満員の中で、決勝戦は台湾でした。ダブルス2勝、シングルス3勝の5勝0敗で日本チームの完勝でした。この日シングルス第一試合で小松選手は三十一歳の老練候選手に対して、右、左とコーナーを攻め、ネットプレーとスマッシュの変化で、小松(15-2、15-2)候と勝利した。続く第二試合はこの日の最終試合として会場を埋めた1,500人が注目するうちに高選手と対戦、これまた松王2(15-7,15-5)高、とストレートで勝った。試合が終わって両選手は手を取り合い喜びながら、「今日の小松君は調子がよかった」松王選手が小松選手を誉めれば、小松選手も「風邪を押して出場したのに先輩の試合は痛快だった」と称えていた。
episode7
これがゴールドメタルで、当時は紐がありませんでした。メダルに紐が付けられたのは東京オリンピックからです。メダルの表はアポロンで、裏は大阪城です。このころのゴールドメダルには、ごまかしが無く、芯に銅があるものの金がたくさん巻いてあります。今はだんだん金が薄くなっていると聞きます。
part6.あの感激が今なお覚めやらぬ興奮の中に蘇る
episode1
アジアオリンピック(第3回アジア大会東京)に参加しえた感激が、今尚覚めやらぬ興奮の中に、ようやく大任を果たして大阪に帰ることができる。高校大学の生活を通じ、悲しみと喜びの7年間でしたが、夢に見た金メダルをグッと握りしめて栄冠に通じる涙の道、険しかった今日までの坂道を顧み、正に感慨無量でした。
episode2
オリンピックは勝つためにあるのではなく、参加するあめにあるという言葉は、開会式に於ける入場行進の一歩一歩により深く感じさせられました。頭上に覆いかぶさってくる80,000人の大観衆を前に、今更のごとく選ばれた重責を再認識し、参加の喜びは何時しか野望に燃え立ちました。
episode3
しかしながら外国選手に比べ、日本のバドミントンの歴史は浅く、技術経験に幼い我々にとって、丸裸になって全力でぶつかるしかありませんでした。3,000人の観衆を入れた体育館の温度は38度に上昇していました。この中で皇太子殿下を迎えての一戦は実に緊張しきったものでした。全力を傾注して遂に優勝が決定し、センターポールに日の丸を仰ぎ、静かに聞く君が代のメロディー。萬感交々、胸に迫りくる情は到底筆舌に尽くすことはできません。更に閉会式に於いて、刻々時移りやがて聖火が消えて、一瞬真の闇、ややあって一斉に競技場にライトが輝いた時、外国選手が目に涙してベリーナイスを叫び、我々選手団に握手を求めて走り寄って来ました。スポーツが取り持つ国民外交というべきか、実にアジアは一つであるということを感じさせられました。
【第三章 大阪合繊延縄株式会社に就職】
part1.大原さん松王君を海外に行かせなさい
episode1
卒業後は岡山の貿易商社に就職が決まっていました。岡山を強くしてくれとのことでバドミントン協会の会長が仲を取り持ってくれて就職が決まっていたのです。
episode2
岡山バドミントン協会のリコメンドで貿易商社を選ぶか、いや、これからは都会で活躍こそが親孝行だ。関西テレビの前進、大阪テレビ入社を選ぶか。しかし、カレーライス一杯の支度金で、大阪合繊延縄株式会社今の株式会社ゴーセンに入社しました。釣り糸と工業用ミシン糸のメーカーで30~40人の製造販売会社でした。
episode3
世界的にバドミントンのガットは羊の腸で出来ている天然のガットで、当時の日本のガットはシルクの糸でした。これをナイロンに変えようと、関大とゴーセンとが一緒になってテストをしている時期でした。お世話になったお礼と、安くて強いナイロンガットが、これからは必要だという話を、大阪合繊延縄株式会社のオーナーの大原玉之助社長としたところ、「まあ昼飯でも・・・」言うことでいただいたカレーライスが私の人生を変えました。
episode4
好きなバドミントンが出来るガットのテスト、アドバイスをしながら、全国に試合に行ける。そしてラケット、シャトルコックと、ラケット用の用具に会社が力を入れていきました。そう言われると、あのアジア大会が思い出されます。バドミントン王国アジアで自分の力を試してみたいと。
episode5
しかし、試合のために海外出張しようとも会社には、また国にも外貨が無く、許されない時代でした。そうだバドミントンをプレーしながら、ゴーセンのナイロンガットの売り込みをしよう。原料メーカーの東レにお願いしたところ、貿易業務にはまだベテランしか海外に行かせていない時代であったためにダメと言われました。そこで、その原料の仕入れ先である商社の兼松株式会社の市川重役に会った時に、市川重役は「大原さん松王君を海外に行かせなさい」と言ってくださいました。海外貿易業務を目指して当社に入社する商社マンでも入社してすぐに海外に行きたいという若者はいない時代でした。「外貨は兼松が用意し、渡航のバックアップは東レということで行って来なさい」と言われ私は飛び上がりました。夢が叶おうとしている。この先どんなロマンが待っているのか。小田実の“何でも見てやろう”、“世界のドル旅行”を、何回も何回も読んだ。“兼高かおる世界の旅”を観た。その傍らで「あんな大きな物体が空を自由に飛べるわけがないから止めなさい」と何度も言うオフクロの言葉も耳に入りませんでした。
episode6
ゴーセンに入社して初めて行った国は台湾でした25歳くらいで、確か東京オリンピックの大使として行ったと思います。東京オリンピックにはバドミントン種目はありませんでしたが、バドミントンのいろんな技術を伝えてほしいということで行きました。海外に行くときにはオフクロはいつも反対していました。「あんな大きな物が飛ぶのはどう考えてもおかしいし絶対落ちる」と言ってきかなかったのを覚えています。当時は日本の空港は羽田空港だけで勿論プロペラ機でした。東海道新幹線が開通した64年にも香港に行った記憶があります。
part2.東南アジア7か国の武者修行の旅
episode1
東南アジア7カ国をラケット一本持って武者修行に出かけるにあたって私は一つの誓いを立てました。それは“何でもして何でも見てやろう”ということでした。かくして、1968年8月18日午前0時1分、羽田発のJALで、東南アジア7か国の武者修行の旅に出発しました。
episode2
合成繊維業界の市場視察とバドミントンの親善試合。この二つの目的。一か月間で詰め込んだ数10種の会話と一本のラケットで果たそうと言うのだから、大変な冒険でした。
episode3
プロペラ飛行機の振動と同じテンポで震えながら、東京の灯が、いや日本の灯がだんだんと小さくなっていくのを見ていると、ただ我武者羅に準備また準備と忙しさに追われていた自分が、今こうして空の上から日本を離れていくのを見ていると猛烈な不安が襲ってきました。この大役をはたして私が果たせるだろうか。いや、それよりも生きて無事に日本の地を踏むことができるのだろうか・・・と、こうした雰囲気を察してかホステスが座席を動かせて、そこに横になるようにすすめてくれました。ホステスの美しい横顔に私の心は落ち着いたのか、不気味な爆音を耳に残しながら、いつの間にか眠ってしまいました。目を覚ますと小さな窓から真っ赤に輝く太陽。その下に浮かぶ白雲、とても美しい、とても素晴らしい、とてもワンダフルな光景が目に入ってきました。
part3.東南アジア武者修行の旅 夢の香港
episode1
東洋の真珠と呼ばれる香港。私は生まれて初めて香港で外国の土を踏みました。出来るだけ力強く、胸を張って歩いてやろう。落ち着かない自分に言い聞かせていました。心配だった税関の審査を無事終わり、ホッとしたのも束の間、出迎えの人が来ていないのです。日本よりも湿気が多いせいか、体中がベットリします。飛行場にただ一人取り残され、いらだちと不安な気持ちで、前方を走る二階建てバスや電車を見ていると、「あなたはどこから来たのですか」チャイニースのホステスが私に微笑みかけてくれました。「ニホンカラキタノデス。ムカエニクルヒトガ、キテナクテコマッテマス」。
episode2
羽田空港で搭乗までの時間待ちの間、英会話の本に首引きだったのに、こんな簡単な英語が出てこないのだから、たまったものではありませんでした。「I came from JAPAN」これが私の最初の英語でした。「ワタシスコシニホンゴデキマス。マツオウノEnglishよりウマイ」 二時間の待ちぼうけでしたが、お互いにチャンポンの言葉で話し合うことが出来ました。彼女曰く、「何事もTryせよ」 そうだ遠慮はいらない。恥も外聞もない。言葉が通じなくては私の目的は果たせないのだから。とにかく手振り身振り。いや、体中使ってもいいから、誰にでも話しかけよう。何事もトライしてやろうとの勇気が芽生えました。
episode3
新聞記者3人と500人の観衆で一杯になる、この時の香港日報から拾ってみよう。昨日のトーマス杯トーナメント出場のチョウ サイ ワンと松王清志はインディアンクラブで、第一回の試合を日曜日にした。チョウと練習試合に於いて、もし本試合に勝ったならば、必ずやバドミントンファンを熱狂させるような熱戦が展開された。ハッと息を飲むような二つのセットに於いて、フットワークの俊敏さに完全に驚愕させられました。
episode4
松王は縦横無尽なスマッシュで、15-9と第一セットをものにした。彼の得意とするところは、チュウの足を非常に乱だすところのハーフスマッシュとチョップショットです。チョウがラケットを置いた時、そのラケットでさえも「よき好敵手ござんなれ」と言っているかの如く感じられました。次の会戦における彼らの勝負は決して見逃すべきではありません。チョウは勝負根性が強く、私と引き分けになると、後日勝負しようと場所と期日を決めて帰っていきました。
part4.東南アジア武者修行の旅 シンガポール
episode1
33度というのに余り汗が出ないのは、乾燥した空気のせいだろう。昼間は直射日光を避けて家の中に生活を求めているが、日が西に傾くと人々は公園や広場に出てきて、バドミントンやサッカーのスポーツを楽しんでいる。夕方から無風状態になるこの地方は、バドミントンには絶好の地である。夜間照明に浮かんだグリーンのコート。まさに白鳥が飛び交うのを見て生まれたバドミントンである。
episode2
シンガポールのバドミントンスタジアムにてゲームがありました。シンガポールではNO1の選手とNO2の選手との2試合をし、一勝一敗でした。コーチ曰く。シンガポールのコーチは「私が君をコーチしたら6か月で君を世界チャンピオンにしてやる」 お世辞にせよ嬉しいことを言ってくれました。
episode3
シンガポールは果物大国です。私はここのボスと駆け引きをしました。彼曰く、「俺は日本で12本バナナを喰ったのを見たことがあるが、君は何本喰えるか」 その発言に何を思ったか「私はその記録を破ることが出来る」と宣言し、喰いも喰ったり、私は18本のバナナ胃袋に詰め込みました。するとボスは手を叩いて喜び、そして驚いていました。その時からミスターバナナというニックネームを貰いました。
part5.東南アジア武者修行の旅 THAILAND バンコク市内
episode1
私はホテル到着と同時に、ボーイに象に乗りたいと言ったところ、タイに来て最初に象に乗りたいと言ったのはお前が初めてだと笑われました。象の背中はゴツゴツと振動が尾骶骨まで響いてきます。・・・象の乗り心地はあまりいいものではありませんでした。
episode2
WELCOM“MR.K.MATSUOU”のアーチをなんとなく照れ臭い気持ちで潜り、トンプリスタジアムの3,000人の観衆の拍手に迎えられて入場した時に、世界の強豪が汗を落としたコート。そのコートで、今自分はゲームが出来るのだと思うと、自然に私の体は力んできました。ゲーム開始前に、「私は何年度のトーマス杯の選手だ」、「私は何年度の」、「私は・・・」と、10人以上のかつての名プレーヤーが握手を求めてきました。ここではトーマスカップの出場選手は、日本の六大学野球のスタープレーヤー以上の人気がありました。
episode3
この日の私は体調、気力、共に最高の出来で、最初、タイのチャンピオンは私を甘くみて、手加減をしていたようでしたが、私が13-2とリードすると相手は勿論のこと、協会役員はじめ観客迄が、非常に緊張した雰囲気になってきました。日本人ただ一人の私は何となく肌寒いものを感じていました。しかし、その時誰かが「サムライ、サムライ」と大きな声で叫びました。すると一斉に「サムライ」の声はスタジアムにこだました。そうだ、俺は日本の“サムライ”だ。三船敏郎よりいい男だぞ!と。この“サムライ”の一声は、タイ国と日本とを一度に近づけてくれ、館内の張りつめた雰囲気を和らげてくれました。
part6.東南アジア武者修行の旅 ビルマ ラングーン
episode1
水と米の都と言われる通り、猛烈は雨の出迎えでした。一年の内6か月は雨が降るこのビルマでの町全体かび臭く感じられました。三日間の短期滞在なので、すぐその足でビルマ協会のセクレタリーに会いに行くと、ロンジーという腰巻を巻きました。何となく田舎のおっさん風でしたが、快く握手をしてくれました。私のために二十数人の協会役員とプレーヤーがレセプションを開催してくれました。
episode2
会場は先日に池田首相がウースー主席に招待された場所でした。ここがビルマNO1のレストランだそうです。池田首相は雨雲の垂れ込めるラングーンの空の如く、すっきりしないレセプションだったそうですが、私は賠償問題に関係ない人間でしたからか、それともスポーツマンだったためか、全く至れり尽くせりの大歓迎を受けました。
episode3
9月14日は観衆3,000人と記者2人が来ていました。床はセメント。電気は暗く、何かの倉庫の跡らしい会場でした。ロンジーを腰に巻き、手に雨傘を持った素足の観客の前でゲームをしましたが、当時のビルマの実力は私が廻った国の中では一番低く、技術的にもこれといって見るものはありませんでした。勿論全勝でした。
part7.東南アジア武者修行の旅 インド カルカッタ
episode1
ニューデリーから アムリツアールに到着し、この地方に唯一のホテルである。アムリツアールホテルに私は泊まりました。勿論、冷房など無く、一晩中扇風機が無気力に回転していて、暑い空気をかき混ぜているだけでした。たまらなくなってバスに飛び込みシャワーの水を体に浴びせると、水はお湯と化しているのですから、全く気が遠くなるような日中を過ごしていました。こうして困っている私に、ミスターカングリーはビッグニュースを聞かせてくれた。それはベッドの上に水を撒いて、その上に寝ることでした。(ベッドは牛皮のハンモックタイプ)水が蒸発するとき体内の熱も一緒に取り払ってくれるのです。余りいい気持ではありませんが、これで暑さを凌ぐことが出来ました。
episode2
暑さとホームシックをミックスした私のイライラを救ってくれたのは、ホテルのお嬢さんでした。イギリスで学んだインテリガールでプラス美女ときていましたからご機嫌になります。その名もミス・ローズ。夕焼けの空はオレンジカラーに映え、グリーンの芝生に美しいコントラストを描き出しています。広い芝生に置かれた象牙の白いテーブル。銀のカップになみなみと注がれたシャンペーン。チキンの丸焼き。小さな蜂雀が戯れ、鸚鵡(オウム)が我々を冷やかし、小リスが我々を歓迎してくれています。子供の時代に読んだイソップ童話そのもの光景が目の前に広がっています。これは猛暑で息も絶え絶えになった、日中の反動なのでしょうか、チェス(乾杯)の数が多くなり、食欲が増すにしたがって、南国の夜空が輝いてきます。蛍が飛んで来て、鳥が鳴いています。ちょっとホームシックだったせいか、それは日本の光や声と同じように思えてきました。
episode3
大理石のコートで、大観衆の中でエキサイティングなゲームの連続でした。試合後に私の応援をしてくれた彼女に、全知全能を振り絞って言いました。シェイクスピア曰く「SILENCE、SILENCE,SILENCE・・・」 時たまガスライターの炎がこの沈黙を破り、美しい彼女の顔を見せるだけでした。「お休みなさい」 と私が差し伸べた手を払って彼女は言いました。イングリッシュスタイルのお休みなさいを欲する」と・・・何故、私の母はイングリッシュスタイルのお休みなさいを教えてくれなかったのか・・・ 残念でたまりませんでした。
part8.東南アジア武者修行の旅 パキスタン カラチ
episode1
協会長はじめ、2,000人の観衆の前でゲームをする予定です。ゲームの前のトレーニングに、アラビア海の海岸を走りましたが、日本で言う中秋の名月であったのでしょう、大きな月がアラビカ海のホークス湾を美しく輝かしていました。月に見とれ潮風を嗅ぎながら、遠くの日本を思い出していると、道端の穴に脚をとられてしましました。5cmくらい切ってしまい、傷はザックリと割れていましたので、到底ゲームが出来る状態ではありませんでしたが、ハンカチで力いっぱい縛り上げて出場しました。
episode2
「KIYOSHI!KIYOSHI!」と床に足ふみしながら応援してくれたイングリッドバーグマンにそっくりだったイギリス大使館の奥様が立ち上がって「JAPANESE!JAPANESE!」と応援してくれたのには感激しました。
part9.東南アジア武者修行の旅 パキスタン シャルコット
episode1
この旅の最後の目的地はパキスタンのシャルコットでした。シャルコットはラケット生産発祥の地です。ラケットは一枚の板に錐で穴を開けるところから始まります。
episode2
ラホールから北方面に進むこと4時間、草原の中を車は100キロから110キロのフルスピードでぶっ飛ばしています。途中で一週間に1度しか通らない汽車に運良く?かどうか分かりませんでしたが遭遇しました。突然ドライバーはこれと競争するのだとメーターをぐんぐん上げます。小鳥やカラスが車のフロントガラスにガンガン当たって、赤い血が弾けていきました。広大な無人の草原を、汽車と車とキャラバンのラクダと三つの異なった異物が同じように西に向かって進んで行くのです。
episode3
日本人がシャルコットの地を踏んだのは、おそらく私が初めてではないでしょうか。東方の日出る国、黄金輝く素晴らしい国、日本からジャパニーズ来る。町中に“噂”は拡がり、私の後を人がゾロゾロと付いてくる。絶対的な支配権を持つボスと一緒に42度にもなり、焼けつくような街を歩いています。
episode4
前にも書きましたがシャルコットは世界で最初にラケットの生産が始まった街です。スポーツ界ではハイクラスのスポーツに入るバドミントンやテニス等のラケットがこのような街で生まれたのかと私は頭を捻りました。日本を離れて2か月、危険と冒険の連続でやっとたどり着いた憧れのシャルコットが、このようにみすぼらしい街とは想像もしてなかただけに・・・
episode5
世界のスポーツファンを沸かすデビスカップ、トーマスカップのラケットはここから生まれたのであり、ローマ大会で優勝したパキスタン、ホッケーゲームのスティックもここからの製品だとボスは言葉を続けました。そう言われてみれば、このミスボラシイ雑然としている街にも何となく、どっしりとした伝導的な感じが湧いてきました。
episode6
ボスは10,000キロ離れた同朋に、アジアのためにパーティーを開催してくれました。しかし、連戦の疲れとモーレツに辛くて油っこい食物で、私は下痢に悩まされ続けていました。むせかえる夜と下痢でトイレに走る回数は増えるばかり、ついにメイドインジャパンのペーパーを使い果たし、私は一時的に回教徒にならざるを得ませんでした。右手に水瓶を持ち、生まれて初めて左手が私のオヒップを水で一緒に流したのです。ウースマン氏曰く、「日本人はなんて不潔で不衛生なことをするのだろう。我々は聖なる水で流し石鹸で手を洗う」そういわれてみれば、何となく我がオヒップはスカッとする。しかし左手は気持ちが悪く、我が手ではないような気はします。
episode7
私の父は第二次世界大戦でアメリカの空母に飛行機で玉砕をはかり、空母もろとも太平洋に沈んだと、ちょっぴりオーバーアクションで話したところ、私の話を気に入ったらしく、「ハラキリの出来る国民は日本人以外にない」と、思わぬことでビジネスに大成功しました。夕闇迫るシャルコットの街を、ボス以下多くの街の人たちに送られながら再びカラチに向かいました。いつの間に作ったのか日の丸の旗を振ってくれた子供たちの笑顔がたまらなく嬉しかった。
part10.東南アジア武者修行の旅を終えて
episode1 体験が教えてくれたバドミントンの神髄
出発前の豊富めいた目的“何でも見て何でもしてやろう”計画の総てを満たすとは出来なかったけれども、バドミントンのメッカでその神髄をこの目で見、腕で取ってきたことは確かだ。私は個人的には収穫はとても多く、大きなものがあり、そしてとても楽しい旅となりました。
episode2
思えば12年前に「バドミントンとは新しくアメリカから渡ってきたスポーツで、ジュードーとレスリングをミックスした?男性的スポーツである」と友人に誘われて握った一本のラケットが、今こうして日本を飛び出して、そのメッカに乗り込んで、10,000キロという長い旅の中でバドミントンの神髄を知ったと言うプライドと共に限りなき喜びに浸っています。
episode3
ジャングルを抜けて父の戦死した場所へ連れて行ってくれたビルマのバドミントンチャンピオン。先に出した私の手を何のためらいも無く握ってくれたタイ国のプリンセス。食を共にしたインドのサッカー選手ミスターウースマン、忘れられない人々ばかりです。東京からパキスタンまで、10,000キロに渡る道のりはすべてが“無”から出発した。私には長く遠い旅でした。しかしその困難の中で、時としてイバラの道だったとしても、人々の友情と好意の中の道を歩いたことに間違いありません。私の一生涯で決して忘れることの出来ない素晴らしい人々の好意でした。
part11.大阪合繊の創業者は大原玉之助 私の恩人です
episode1
大阪合繊延縄株式会社(後の株式会社ゴーセン)の創業者は大原玉之助です。大阪合繊は最初から魚釣りのテグスをナイロンで作っていたわけではなく、最初は蚕の糸でテグスを作っていました。昔のテグスは天然の糸でしたから切れやすく、それを東レが開発したナイロンに替えたことで、テグスは強くなって安くなって需要が大きく増えました。最近まで有名だった“スーパートト”を生み出した人です。その業界では非常に貢献した人で、その後に延縄の糸はスーパートトに替わっていきました。
episode2
私がガットを羊の腸からナイロンに替えたのも同じ発想です。当時のバトミントンのガットは羊の腸で出来ていましたが、ナイロンでガットを作れば強くて、安いガットが出来るとのアイデアを持っていました。ある細工をして、我々はヒーターセットと言って、糸が伸びるのを限界まで伸ばしてこれ以上伸びないようにする技術など、大阪合繊には糸をより込んだり、組んだりいろいろな技術がありました。その中の一つに糸をがっちり止める技術があり、ナイロンのガットはその技術があったからこそ製品化できたのです。
episode3
私は大原社長がいなかったら、従業員16名の大阪合繊延縄に入社していませんし、入社後も私の遣りたいことを自由自在に遣らせてくれた恩人です。大阪合繊は中小企業ですから金銭的な余裕ありませんでしたが、当時東レの支店は世界中にありましたので、その東レの支店を伝うようにバドミントンをしながら営業して回ることで、私に世界中を歩かせてくれました。
part12.第一線で勝てなくなったら、強かった人は辞めたいですね
episode1
アスリートとしての現役生活は29歳まで続けました。第一線で勝てなくなったら、強かった人は辞めたいですよね。ご存じのとおり負けたくないからです。
episode2
第一線を退いた後は、ゴーセンの中にチームがありましたのでコーチとして選手の育成に努めました。会社からはあらゆる大学へコーチとして派遣されました。勿論ガットを売ることも仕事でしたが、それよりも私の技術を教ることに生き甲斐を感じていましたし、若い選手に教えることによって、ガットはゴーセンとなりますから、コーチすること=営業でした。強いバドミントン部のある大学へはすべて行ったと思います。地元大阪の高校でも四条畷高校や梅花高校など強くなり、どちらも全国大会で優勝しています。その時代の主だった選手にはみなコーチしましたが、私がコーチした中で一番成功したのは、湯木博恵(ゆきひろえ)さんでしょう。彼女の名前には聞き覚えの無い方でも、演歌歌手の新沼謙治の奥様と言ったら、ああそうだった!と思い出す方もおられるはずです。
episode3
私はコーチ時代にデンマークのエルランド・コップスを日本に呼び、彼と共に日本各地の学校へ赴き指導したり、エキビジションゲーム(当時彼と本気で戦えるような選手はいませんでした)をさせました。岡山の山陽女子学園では毛利先生の指導により将来を有望視されていた湯木博恵さんがいましたのでコップスを連れて行きました。世界NO1のコップス氏のプレーを見ようと岡山県のトッププレーヤーが集まりました。特にコップス氏のバックハンドもフォア―ハンド同様にシャトルを打ち返す技術に大変驚きました。このバックハンドでのラケットワークを湯木選手はコップス氏から教えてもらったことがきっかけで強くなっていったと思っています。
湯木博恵(本名:新沼博江、旧姓:湯木、1948年11月15日~2011年9月7日)は、日本のバドミントン選手。世界一に4度君臨したバドミントン界の女王です。
広島県安芸郡生まれ、岡山県育ち。山陽女子高等学校3年の時、高校総体で初優勝しました。日本女子体育大学2年だった1969年全英オープン選手権女子シングルスで初優勝を果たすと2年連続を含む計4度優勝します。全英オープンは1977年に世界選手権が創設されるまで事実上の個人の世界選手権だったので、世界一に4度君臨したことになります。この偉業を称え、持ち回りの純銀製優勝プレートの永久保存を許されたのは彼女だけです。
1971年には、高木紀子とのペアで、全英オープンのダブルスでも優勝しています。バドミントンが公開競技として行われた1972年ミュンヘンオリンピックでは3位となりました。また、世界女子団体選手権(ユーバー杯)も3度制覇、全日本総合バドミントン選手権大会でも5年連続を含む6度の優勝を飾り、1960年代から1970年代にかけて女子シングルスで圧倒的な強さを見せ「女王」の尊称付きで呼ばれています。
バドミントン女子ダブルスでバルセロナ五輪にも出場経験のある陣内貴美子さんが、小学生の頃に湯木の練習を見学した際、湯木がゲーム練習中にアウトと判断して見送ったシャトルが2回続けてインとなった。湯木は首を傾げつつ、練習を続けたが、3回目となるミスをした際に主審に「コートの大きさを測り直して欲しい」と依頼したそうです。実際に計測してみると、規定より約5㎝広いという結果でした。この湯木の正確なコート把握能力に陣内は子供ながらに感心し、後に陣内が湯木にこのエピソードについて聞くと、湯木は「そんなことあったっけ?」と言いつつ、「コートの広さくらい体が覚えているからね」と語ったそうです。
1974年、1975年、1977年の全英選手権女子シングルスで優勝していますが、1976年が抜けているのは、日本バドミントン協会が「参加するな」と命令したからです。当時、国際バドミントン協会(現・世界バドミントン連盟)は「台湾問題」を巡って中国と対立していました。一つの中国を主張し「国際スポーツ界から台湾を追放せよ」と叫ぶ中国に対し、欧州各国は台湾を支持していました。板挟みとなった日本は、中国の肩を持つべきかどうかで苦慮した挙句、国際バドミントン協会が主管する全英選手権のボイコットを決めました。もし湯木が1976年の大会にも出場したら、世界バドミントン史上に輝く四連勝を達成していた可能性もあったので、本人は「あんなチャンスは二度とやってきません。とても悔しい」と繰り返し話していたといいます。
エルランドコップス(1937年1月14日~2017年2月17日)男子シングルスイベントで優勝し、全英バドミントン選手権でのマラヤン選手による8年間の支配に終止符を打ちました。コップスはまた、極東でメジャーシングルスのタイトルを獲得した最初の西洋人の一人でした。彼は豊富なスピード、パワー、スタミナを印象的なショットメイキングの妙技と組み合わせました。コップスは明らかに彼の時代の支配的なトーナメント男子シングルスプレーヤーであり、支配的な男子ダブルスプレーヤーでした。
彼は全英オープンバドミントン選手権でこれまでで最も成功した選手の1人であり、1958年から1967年の間に11のタイトルがあり、そのうち7つは男子シングルス、4つは男子ダブルスで、アイルランドの選手を破りましたフランクデブリンの6タイトルの記録。
エルランドコップスはまた、男子シングルスでデンマーク選手権の5回、男子ダブルスで4回優勝しました。北欧選手権では、エルランドコップスが男子シングルス部門で5回、男子ダブルスで3回、混合ダブルスで2回タイトルを獲得しました。
当然のことながら、エルランドコップスは、1997年に世界バドミントン殿堂入りに参加した最初のバドミントン選手グループの1人であり、最初に紹介された選手でした。 2013年に(BEC)の殿堂入り。
彼のスポーツの功績が認められ、エルランドコップスはデンマークの女王の名誉会員であるナイトフッドを受賞しました。 バドミントン世界連盟からバドミントンデンマークの名誉会員であるデンマークスポーツ連盟は、デンマークスポーツの殿堂入りを果たし、で2番目に優れたスポーツマンに選出されました。
part13.“ローマの休日”が現実となったワイフとの出会い
episode1
タイのナンバーワンと日本のナンバーワンが試合をする企画が出来て、それに私が行きました。予定では国王の前で試合をするはずでしたが、その時は国王のお姉さんがいらっしゃいました。新聞記者もたくさんいまして、その時は勝ち負けよりも親善ですから、“ジャパニーズサムライ”と言われてとても嬉しかったのを覚えています。海外では試合が終わってよくパーティーをします。タイでは会場によく占い師を呼びます。その会場の夫婦の占い師にみてもらったところ、「貴方は今回の旅の中で結婚相手が見つかる」と予言されました。
episode2
この時の私の旅は東南アジアからロンドンまで22カ国を旅する旅程です。その途中でタイ、インドからパキスタンを回って、イタリアへ寄ってロンドンまで行くコースでした。40度という暑熱と人恋しさで、すっかりホームシックにかかっていた時にインドのホテルで、ちょうど日本を経って1か月ぐらい過ぎていました。泊まったホテルに日本の新聞デイリースポーツが置いてありました。日本語に飢えていたこともあり隅から隅まで読んでいたところ、その中に1964年度ミスワールド日本代表の原田美弥子さん大坂成蹊女子短期大学19歳が、日本代表として“美の親善特使”としてカイロ、ローマ、パリ―、そして世界大会のイギリスロンドンに行く。大阪からミスワールドが出て、その女性は水泳のオリンピック強化選手とのことでした。ロンドンへ行くコースは私の出張コースと全く同じコースをたどるのです。
episode3
その頃の私は、男気と言うか「ゴーセンは俺がまわしたる」くらいの強気で世界を飛び回っていますし、世界に怖いものなどありませんでした。だけどいつも危ない橋を渡っていました。飛行機でも何回も危ないことがありました。タクシーに乗ると襲われて金を出せと言われたり、言葉はうまく通じない。そんなところへ女性が一人で私と同じロンドンまでのコースで行くのは大変だということはすぐわかります。そのころ日本は外貨が全然ありませんでしたし、銀行で両替をすると 1ドル360円がなぜか400円以上します。それも500ドル以上持って出られない時代です。私の旅でさえ途中で東レの支店でドルを借りないと前に進めない。そういう時代でしたから、旅の苦労と危険なことなど、いろいろ教えてあげたいと思ったのが発端です。
episode4
妙な親近感が湧いて私は彼女にホテルから手紙を書きました。・・・・日本女性の素晴らしさを、外国の人々にみせてください。・・・・あなたの優勝の願いが叶いますように。自分が行って危ないのは分かっていましたから「貴方がこれから行こうとする旅は非常に危険な旅になるかもしれません。本当に怖い思いもするかもしれませんよ。だけど“美の親善特使”としてスポーツウーマンが旅にチャレンジするのは物凄く好きです。私は同じコースを先に行きますから、よければローマのホテルに10円玉を送ってください。トレビの泉にバックハンドで投げてあげますから」 高校生の時に観た映画“ローマの休日”を思い出しながら、頑張れよと言う意味で手紙を送りました。当時オードリーヘップバーンとグレゴリーペッグの出演の“ローマの休日”の刺激もありました。また東京オリンピック水泳のフリースタイル候補選手、しかも大阪出身、その上タイのバンコックでの星占いで、この旅行中に恋が生まれる。それは成就すると出ていました。
episode5
全く知らない君にあなたのこれからの旅の安全とミスワールド入選“美の親善特使”の成功の願いを込めて、ローマにて愛の泉に、バックハンドで十円硬貨を投げてあげます。何故新聞を読んで手紙を出すことが出来たのか不思議に思われる方もおられると思います。今では考えられませんが、当時の新聞には住所まで書いてあることは極普通のことでした。後に聞いたところによりますと、彼女がミスワールド日本代表になったころ、お父さんは娘宛に来た手紙を全部捨てていたそうです。その中で私の手紙が彼女の元へ届いたのも、ある意味で奇跡だったのかもしれません。
episode6
ローマのホテルに着いたら手紙が届いていました。「実を言うと、ミスワールド日本代表で外国へ行けるのはあまり嬉しくないんです。もしこれが水泳の代表ということでしたら感激なんですけど・・・」私はその手紙を読んでミスワールド日本代表という華やかな名前の下に隠された素顔を覗き見る思いがしたんです。スポーツマン同士の強い共感も覚えました。そして、「同じコースですのでよろしくお願いします」と、M.Hイニシャルの10円コインと写真を受け取ることになりました。私は約束どおりローマへ行きトレビの泉に10円玉を投げた証拠にと、向かいにレストランがあって、その店のオッサンをトレビの噴水の前に連れてきて写真撮ってくれと頼みました。
episode7
1964年ミスワールド世界大会がロンドンで開催され、日本代表として選ばれ優勝は逃したものの素晴らしい成績で帰国した彼女を、羽田空港まで迎えに行きました。
episode8
女性セブンにワイフの結婚記事が載っています。「ミスワールドの名を忘れて、すてきなフィアンセを!ミスワールドの名を忘れて、かわいい奥さんになりたいのです」そんな美弥子さんにお母さんは「美弥子がごく普通のサラリーマンにお嫁に行くと言ったらご近所の人がみな不思議そうな顔をするんですよ、当たり前のことなのに。娘はでもまだ二十歳なのでもう少し手元に置いておきたかったですね。ミスワールドに選ばれた時には「あの人がミスワールドのお母さんよ」と囁かれ、買い物にも出られなかったのに、今度はテレビ結婚式だそうです。
episode9
弟(松王重明さん)が関西大学バドミントン部キャプテンの時に母校の体育館のこけら落としで、関西テレビで「テレビ結婚式」-ここに幸あれ-でめでたくゴールインしました。徳川夢声と有里みちこの仲人により1964年東京オリンピックの年の5月26日に関西テレビのテレビ結婚式-ここに幸あれ-で結ばれました。ゲストには同窓の阪神村山実投手夫妻が来てくれました。
episode10
テレビで沢山の人に公約したからか、トレビ泉がよかったのか、現在は毎日4,000mのスイミングを目標にしているワイフと、既に嫁いで自立して一家を成しています二人の娘と、二人の孫がいる平和な家族生活を送っています。
episode11
それから何十年かして妻とローマへ行ってその店のオッサンを尋ねたら、当時を覚えてくれていました。嬉しかったですね。「結婚したで!」って言ったら凄く喜んでくれました。タイの占い師夫婦の予言は当たりました。
part14.今では当たり前のトップ戦略を日本で初めて考え付く
episode1
世界を廻ることでバドミントンの普及にも携わられたことが、人生で一番の幸せです。勿論、世界を廻るのは商売でバドミントンとテニスのガットを売りに行くのですが、後半はテニスのボリューム(売上高)が断然多くなっていきました。それはテニスの糸の方が太くて重いので値段が高いからです。
episode2
私が世界を廻っていて“大阪合繊”という社名が世界で伝わりにくいことを感じていました。「大阪合繊ってなんや?」ということで、「社長こりゃあきませんで、大阪なんか付けとったら」と進言しました。当時の世界では“神戸”の方がよく知られていましたので、カタカナで“ゴーセン”に社名変更しようということになりました。ロゴは“GOOD!”と物事を讃えるときの拳の形がモティーフになり、親指から順に、情熱、躍動、決断、慎重、誠実をあらわしています。
episode3
1973年にテニス界のグランドスラマー、ロッド・レーバー選手(オーストラリア)とゴーセンの宣伝・奨励の世界契約を結びました。テニスの神様と言われていたロッド・レーバーは4大大会優勝、2度のグランドスラムを達成しています。先の全豪オープンの女子決勝戦で大坂なおみが優勝したセンターコートは、ロッド・レーバーの名を冠した「ロッド・レーバー・アリーナ」と名付けられています。
episode4日本で初めて世界のトップ選手と契約したのは当社が最初で、トップ戦略が始まったのはそのころからです。1981年にはテニスのトッププロ、ジミー・コナーズ選手(アメリカ)、クリス・エバート・ロイド選手(アメリカ)とも、宣伝・奨励の世界契約を結びました。
episode5
1991年には更に、全豪オープンと全仏オープンでそれぞれ大会2連覇を達成したジェームズ・スペンサー・"ジム"・クーリエ(アメリカ)や、1990年の全米オープン女子シングルス優勝者ガブリエラ・ベアトリス・サバティーニ(アルゼンチン)と使用契約を結ぶなど、ゴーセンは世界の一流選手と使用契約を結びました。契約の内容は、写真を使えますし、ガットも当社の製品を使います。
今だから言える、ここだけの話ですが、実はガットを本当に使っていたかどうかは、分からないままでしたが、実際にゴーゼンの“G”マークはラケットに書いてありました。(笑)
episode6
その後も、自己最高ランキングはシングルス3位、ダブルス1位。ATPツアーでシングルス23勝、ダブルス16勝を挙げた。世界チャンピオンのヤニック・ノアとも契約しました。アフリカ系フランス人で、こいつは強かった。この時、当社として彼には凄い額の契約料をだしました。この時の記者会見には新聞社がいっぱい来ていました。
episode7
有名選手に年間契約でお金を渡すとか、ガットに関するいろんなことは、私が業界で最初に遣りました。そうすることで世界の中でテニスとバドミントンの市場を取っていきました。その市場を取ると子供たちもゴーセンのガットを使うようになって、更に市場を広げてゆくことになりました。
episode8
そのころ日本のラケットのトップメーカーはヨネックスでした。そのラケットのガットは当社の製品でした。カワサキラケットも日本で大きな市場を持っていましたが、そのカワサキラケットもゴーセンの糸を使っていました。そうするうちにゴーセンの会社が大きくなって、ガットだけではなくラケットも自社ブランドで遣ろうかということになりました。基本的にゴーセンはガット屋ですから、それがラケットをやるのは良くないのですが、そうゆう時代でもあり自然の成り行きでラケット市場に参入してゆきました。当然ヨネックスやカワサキラケットとはライバル関係になっていきます。
part15.世界戦略により世界市場を開拓する アフリカ編
episode1
ウガンダ、ケニア、タンザニア、南アメリなど、アフリカ大陸では、ヨーロッパの大使館がある国を中心に開拓していきました。大使館の社員がテニスをするのにガットが売れるのです。当時アフリカにはガットを生産する工場が無かったかものですから、ものすごく高く売れました。当時のアフリカでテニスをするのはハイソサイティーの人だけで、ヨーロッパの大使館の人たちで、特にオランダ人はよくテニスをしていました。
episode2
アミン大統領政権下のウガンダでは大量虐殺もあり、戦争や内戦が多発していて、ウガンダは心底怖い思いをしました。
episode3
マラウイへ行ったら、日本に汽車はあるかと言われて腹が立ちました。「汽車も飛行機も飛んどるわ!」と言い返してやりました。当時のアフリカでは日本の情報などは無くて、日本のことなど全く知られていなかったのでしょう。
episode4
あるときオランダにゴーセンの店を作った関係で、オランダ人とアフリカに行きました。折角だからサファリに行こうということになり、運転手を二人雇って三か国を一週間ぐらいで横断しました。アフリカのほとんどの国々は植民地だったことから、ホテルは外国人用のいいホテルがありました。ホテルの窓から外を覗くとサイやキリンが見えます。今思い出しても夢のような光景でした。サファリの途中で“しょんべん”したくなって車を降りて用を足そうとするとガイドが「ノー!」と叫んで止められました。黒ヒョウが木の上にいたのをガイドが見つけて制してくれたのです。そうなんです、夜中に黒ヒョウは見えないのです。カバやゾウはそれほど怖くありませんでした。運転手はこれが限界というまで近くまで寄ってくれます。けれどもゾウが鼻を挙げて向かって来た時の迫力といったらほんとうに怖いです。運転手は玄人ですから向かって来たらすかさずバックする。その繰り返しでスリルは満点ですが、車に体当たりされたらもうダメです。
episode5
どこの都市へ行っても中華料理店はだいたい一軒はありました。日本人には中華料理は食べやすいのでよく利用しました。当時のアフリカでは現地人はそんなところへは入れませんでしたが、一度だけボーイにチップを渡して連れて入ったことがあります。中華料理はたくさん出ますけれど、彼らは飢えた人たちですから全部自分が食べてしまいます。最後は抱え込んで食べていました。正直、連れて入ったことを少し後悔しました。そんなこともあって、最後はとても仲良くなって帰るときに貰った人形を思い出に家に置いています。当時の私は30歳台だったと思いますが、今となっては楽しかった思い出です。
episode6
タンザニアで連れのオランダ人が民芸品に興味があって、オランダに帰って商売しようと思いついて、店の物を全部買うと言い出しました。私もおすそ分けでなんぼか買おうかと思って買って来ました。その時店の主は「これだけ買ってくれたから俺の奥さんをやる」と言い出しました。どう考えても奥さんを貰うわけには行きませんから、代わりに貰ったのが玄関にある人形です。その店で一番のメインの人形を貰って帰ってきました。この国では一夫多妻制ですから「奥さんをあげる」というような話になるのでしょうが、不思議に思いませんか。どうしても男が余ってしまいますよね。そうなんですよ、仕方ないから男同士のペアが出来るんだそうです。
part16.世界戦略により世界市場を開拓する ソビエト編
episode1
ラケット競技のないところへは基本的には行かないので、あまり共産圏には行っていませんが、ソビエトには東レの偉い人と行きました。下調べをした方がラケットを作る技術屋と、ガットを作る技術屋を来さして欲しいと言ってきました。誰を行かせるかということになり、世界を廻っている松王を行かそうということになりました。ソビエトはラケットを作るのにいい硬い木がたくさんありました。“トネリコ”という木は硬くてラケットを作るのに適していました。
episode2
当時のソビエトは外国人が行けるエリアが決まっていて、そこから外へは出られなかった時代でした。我々は招待されて行ったのに、東レがパーティーの費用をすべて出しました。キャビアとかウォッカが出て来たら、あっという間に無くなります。我々が食べるのではなくて、ソビエト人が食べてしまいます。当時のソビエト人はみな飢えていました。お客さんより先に食べる、そんな時代でした。
episode3
市場開拓に行きましたが、まだ早いかなと感じました。ラケット競技の市場を調べたところ、まだ商売ができる国ではないとの結論に至り断りました。
part17.世界戦略により市場を開拓する 中東編
episode1
中東へも数カ国行ってみましたが、ラケットの市場はまだありませんでした。そのなかでもモロッコのカスバは面白かった記憶があります。そもそも“カスバ”とはアラビア語で城塞の意味でカスバという地名はあちらこちらにあります。最も有名なのはモロッコの都市カスバ。カルセールマキがしばらくして来たので有名になったがために、オカマが多い国のようなイメージがありますが、そんなことはありません。カスバで飲みに行くのはそりゃ怖いです。けどスリルがあります。女性は顔を見せない。そんな中に入って行って飲むのですから。
episode2
1942年に公開されアカデミー賞の監督賞・脚色賞の3部門を受賞した映画“カサブランカ”は、そのタイトル通り、ここモロッコのカサブランカが舞台です。第二次世界大戦下のフランス領カサブランカを舞台に再開する男女のラブロマンスを描いた作品で、アメリカ映画協会選定の「アメリカ映画の名セリフベスト100」の5位には、あの有名なセリフ「君の瞳に乾杯」がランクインしています。
part18.世界戦略により世界市場を開拓する 南米・北米編
episode1
その当時、南アメリカに日本人はあまり行っていないと地域でした。その中ではチリでは結構な商売ができました。チリにはガットを扱う日本人がいて、その人と商売が出来たからです。ラケットやガットだけでなく釣り糸もよく売れました。
episode2
ブラジルのサンパウロには日本人がたくさんいます。サンパウロは日本人村のようなものです。日本人移民は農業の開拓で行っていたので、そのころブラジルの農業を牛耳っているのは日本人でした。当然のことながらリオのカーニバルも見にいきました。そりゃ華やかで凄いお祭りですから必見です。
episode3
コロンビアは、そのころからメジャーリーグで活躍する野球選手をたくさん輩出していました。
episode4
メキシコではラケットはたくさん出ました。言わずと知れた“太陽の国”。メキシコシティーが3000m。高山病とは急に高所へ行くと数時間後に頭痛のほかに、ふらつき感、食欲不振、吐き気と嘔吐、疲労、脱力、怒りっぽさなどの症状になります。 急性高山病の症状を二日酔いのよう、と表現する人もいるほどです。 症状は通常、24~48時間続きますので。寝る前にベッドの横に高山病の薬を置いて寝ていました。高山病にアルコールは良くないのですが、得意先とはよく酒を飲みました。メキシコにはテキーラなど強い酒が多いのですが、私があまりにも酒をたくさん飲むものですから、相手がびっくりしていました。
episode5
余談ですが、私は海外の会社と様々な契約を結んできましたが、どこの国へ行っても共通することが二つありました。契約の場に酒はつきものです。当時の日本人は酒を飲まされて、相手のペースで契約させられてしまっていたのです。日本人には酒を飲ませて商売すれば勝てることは、世界の常識になっていたのかもしれません。私はウイスキーもウォッカも誰にも負けませんでしたから最後に酔わされて契約させられたことはありませんでした。もう一つは通訳を通さないことです。通訳を通すとどうしてもこちらの真意が伝わりません。ガットの商売はグラム単位の商売ですので、ロットの単位になると大きな利益を失います。
episode6
話しを元に戻しますが、有森裕子がコロラドで高地トレーニングを取り入れて、オリンピックで成果をだしたことで、今ではどの競技でも当たり前になりましたが、当時は高地トレーニングをする人はいませんでした。有森はコロラドで強くなりました。
part19.世界戦略により世界市場を開拓する ヨーロッパ編
episode1
有森裕子が銀メダルを取ったバルセロナオリンピックで、当社はバドミントンとテニスのメインスポンサーとして、全選手にガットを張ってあげました。家を一軒借り切ってオリンピックの期間中そこで寝泊りしました。
episode2
前年の世界陸上東京大会で、有森裕子は2位の山下佐知子に続いて日本人2番手の4位に入ってバルセロナの出場権を得ます。大会直前合宿でジョギング中に木の根を踏み、踵(かかと)を痛めてしまっていました。
episode3
バルセロナ入りすると、有森はシューズを作ってくれている三村仁司(当時・アシックス)を訪れ、泣きながら「棄権はしたくない。ジョギング用のアップシューズで走るしかない」と訴えた。三村は「何とかする」とレース用シューズを預かると、踵の部分をくり抜いて、クッション性の高い素材に入れ替えるなどの工夫を凝らし、彼女のシューズに応急処置を施していました。
episode4
そのような状況だったにもかかわらず、有森は35km過ぎに先頭を走っていたワレンティナ・エゴロワ(ロシア)に追いつき、スタジアム入り口までデッドヒートを演じていました。私たちはメインスタンドでチケットを握りしめて有森が帰ってくるのを、今か今かと待っていました。ゲートをくぐって有森が帰ってきた時は、立ち上がって叫ぶほど嬉しかったのを覚えています。「岡山人じゃ!やった!取った!」ってな感じだったでしょうか。(笑)
episode5
あれはセントアンドリュース。スコッチの瓶が入っています。バルセロナのオリンピックの後社長の甥っ子は、その時の社長でした。「松王、どうしてもセントアンドリュースでゴルフしたい」。「でもねぇ社長、遊びに来とんじゃないから、それに社員が10人も来とんのに」と言っても、「それでも絶対に行きたい」言うものですから、連れて行きました。セントアンドリュースなんて予約してなきゃ入れません。どうしてもゴルフがしたいなら明日予選があるから、それを通過したら二人だけ入れる。そう言われたものの、彼はへたくそやからやめて、記念にこれだけ買って持って帰って来ました。
episode6
それでも諦めきれない社長を連れて、中島常幸が準優勝したセントアンドリュースの近くのゴルフ場へ行ってゴルフしたんですけど、そのキャディーは「あの試合で俺が中島のキャディーをした」と威圧的に言って来ました。あそこらへ行ったらキャディーが神様ですから、キャディーの言うことを聞いておかないと風は強いし、ラフも深くてアイアンンに迷っていると、「何番アイアンを持ちなさい」言われながらプレーしたのが思い出です。
part20.世界戦略は遂にダンロップに乗り込む
episode1
私はアジア7か国の武者修行でスポーツマンの素晴らしさを知り、日本製のラケットとガットでバドミントン王国と勝負が出来たことは大きな自信となりました。そして、ゴーセンバドミントン部をつくり、世界にラケット用品の販売をすることになりました。東南アジアの次はヨーロッパ大陸へ進出しました。これはアジア以上に人種差別で、また言葉の面で苦労しました。当時イギリスのダンロップと言えばラケット用品では世界NO1でした。この会社に当社のガットを売り込みに行きました。
episode2
ロンドン市内からタクシーで5ポンド(5,000円)ダンロップの会社に行くのですが会ってくれません。(1,080円―1ポンド)往復で10,000円。日本から2万キロです。時間と金をかけて来ているので、会わないで帰ることはできません。4日間通い詰めてやっと会いました。当社自慢のガットを見せました。既に東南アジアでは“HY-sheep”天然シープよりも良い、強い、安い、ということで私が付けたネーミングです。しばらく商談室から消えた彼が真っ赤な顔で帰ってきました。だから日本人は嫌いだ。君の持ってきたガットは当社のパテントに抵触する。類似品を作る日本人は我々の仲間ではないと追い出されました。
episode3
パテントに抵触することなど全く知らなかった私はこの件を本社に知らせなければならないのですが、しかし、電話は出来ません。電話代は非常に高いですから、そんな金はありませんでした。速達の往復便を待つしかありませんが、10日間はかかります。その間に考え、思いついたのがガットの中に穴をあけ、中に油を入れるというアイデアです。その油が表面に滲み出て、天然ガットと同様の味を出してくれる。“シープの味”、“鋼の強さ”。HY-0-sheepがこの時生まれました。リスクに挑戦する精神から生まれたのだと思います。パテントの重要性、知的財産を守ることの重要性を知りました。OIL入りガットは世界のパテントを取得しました。
episode4
1999年10月3日に世界のソニーを築かれました、ソニー創業者の盛田昭夫氏が死去されましたが、丁度日本の経済パワーが膨らんだ70年代~80年代以降、世界のソニー、松下、そして日本の商社がベンチャー企業として政界のマーケットを切り開いた時代です。スケールこそ全く違いますが、ガットの業界では、世界市場60%のシェアを取り“小さな世界企業”として日本経済新聞から表彰を受けました。北米、南米大陸、そしてアフリカ大陸と市場を開拓し続けました。
episode5
九龍半島から香港島のビル群を眺めていると“SONY”の看板が目に入りました。私はその時に隣のビルに“GOSEN”の看板を立ててやると決意したものです。今振り返ってみて、少しは盛田さんに近づけたかなと思っています。
part21.世界中を飛び廻っていた私が遂に社長就任
episode1
30歳まで選手として世界中を回っていましたから。最終的には大原社長が私を気に入ったのでしょう。
episode2
ゴーセンは2001年に50周年を迎えています。その頃は社員330名、売上90億円。ラケットゲーム用品を中心にしたスポーツ用品部、ゴルフ用品部、釣り具部、加工糸部、それと国際部、計5つの事業部があります。台湾、シンガポール、アメリカに子会社があります。基本的に物を造って販売する会社です。造る情熱と販売への挑戦をスローガンにして、世界の中の速い変化に対応できる、スピードある経営に力を入れています。早い商品開発、早い生産、早い商品の発送、お客様を待たせない、お客様が欲しいと感じた時に素早く商品を提供すること。これが勝つことである。随分前のことですが、現在にも通じるのではないでしょうか。
episode3
創業者である社長には息子がいて、甥っ子もいました。息子は遊び人で、いつも私が尻拭いをしてやっていました。ある日、結婚式をオランダで遣りたいと言い出して、私が段取りをしてオランダで結婚式をさせました。結婚式は派手にしたい、日本よりも海外でしたい。結局は遊びが止まらなくて、飲みすぎて早くに死んでしまいました。
episode4
その後二代目社長を甥っ子が継ぎました。時はちょうどバブルの真っ最中でした。彼はゴーセンの基本的に物を造って販売するというルールが守れず。楽をして金儲けのできる“株取引”に力を入れました。バブル期であったりゴーセンは土地、建物、世界的ネームバリューのあるブランド商品がありました。銀行は彼の思い通りに金を貸しましたが、バブルがハジケ、株価が急落、その後には甥っ子は10数億という損失を出しました。会社は従来通り儲かっていましたが、多額の負債を払っていくのは大変なことは分っていました。それでも社長を70歳まで頑張って遣ろうとの思いは変わらず、第3代目社長を引き受けました。その後に小泉政権になって銀行は貸している金を全部返しなさいとなった。当時の売上はメーカーでしたから83億くらいだったでしょう。83億の会社で10数億の借金はきついものがあります。利益はあるけど一気に返せと言ってきました。その時分に変になった会社はいっぱいありました。あれは遣り方がヒドカッタと今更ながらに思います。
episode5
そんな状況のときに、日本毛織から買収の話が入って来ました。ゴーセンは儲かっている会社ですし、何よりもその知名度が欲しいとのことと、これからテニスコート事業を是非とも遣りたい。ゴーセンは本来材料メーカーですが、販売のネットワークもあるのでなんとしても買収したいということでした。
episode6
ちょうど私が社長を辞めるのと時期が一緒になって、最終的には日本毛織は2006年に当社を買い取ってくれました。今は日本毛織の子会社になっています。買収に際して私は二つの条件を出しました。一つ目は社員を全員残せ。ゴーセンの名前を消すな。私は強気に出ましたが、向こうが条件を飲んでくれ、今でもゴーセンの名を遣っていますから、一緒になっていることを知らない人も多いのではないでしょうか。私は退職金は要らないから、その代わりにこうしてくれとの、私の条件を飲んでくれました。
episode7
そんな当社に対して東レは私の男気を気に入ってくれてか、会社を続けるようにと何回も来られました。それと、もう少し若かったら買収に反抗して色々出来たでしょうが、その時既に70歳でした。当時70歳で働く人は、今はいますけど当時はいませんでした。
【第四章 ~地球を53周飛んだ~帰郷】
part1.JALとともに飛んだ世界
episode1
あのころJALはパンナムを追い越す勢いで伸びていきました。地球一周が4万キロと言われますが、JALだけ使って最初に地球を10回ったのは私が初めてかもしれません。そんなこともありましたので、今でもJALにはちょっと偉そうに言えます。
episode2
以前にJALより50万マイル飛行の特別表彰をいただきましたが、他社のAIRLINEでの飛行を合わせると、200万キロ以上になり、地球を53周飛んだことになります。時間にして1,500時間60日間も地球の上を飛んだことになります。(飛行速度は現代の飛行機とはスピードが違いますので単純には比較できませんが) 訪問した国は合わせて65か国。出会った人々は到底数えることはできません。しかし素晴らしい思い出として、大きな財産として残ったことは確かです
episode3
ボージョレ・ヌーボーの解禁日は、毎年11月の第3木曜日午前0時と定められています。今でも秋にはJALが持っているフランスのワイン醸造場から、JALのマークが印刷されたラベルのボージョレ・ヌーボーが毎年2本届くそうです。今年も届いていました。ラベルにはちょっと気取った東洋人らしき男性が、栗色の髪の毛の白人と思われる美女に何やら語り掛けています。2人とも少々赤ら顔なところを見ると、まんざらでもなさそうですね。いかにもJALらしいおしゃれなラベルです。ひと口飲ませていただきましたが、このボージョレ・ヌーボーは以外にもフルーティー過ぎず、美味しいボージョレ・ヌーボーでした。(野﨑)
part2.西大寺浜へ帰郷
episode1
もともと浜に帰ろうという気もあったし、おふくろがこの土地を置いてくれていたからでしょうか、10年ほど前に大阪から帰って来ました。
episode2
元の私の家は永安橋のところにあり、ここら数十軒の集落は、いわゆる“街”です。200mほど先に二軒屋と呼ばれている野崎さんの家のあたりは、私たちからしたら“田舎”でした。「空襲になるとうちの辺りは“街”だからやられるけど、野﨑さんのあたりは“田舎”だからやられないだろう」とのことで、防空頭巾やら毛布やらを持って200m先に疎開しに行きました。
episode3
岡山空襲は昭和20年6月29日の夜が明ける前でした。そのころは蛍が終わりかけの時分でした。今考えたらなんでこんなことしたかと思います。岡山空襲で焼夷弾はこの辺りには降って来ませんでしたが、風に乗って飛んできていたのでしょう。“大きな蛍”じゃと思って採ったら、それは焼夷弾の破片が蛍のように光っていて、バーッと体中に火がまわってしまいました。体に回るのがそれは早かったです。リンのように飛び散って大きくなるのです。おふくろは10歳の私を抱き抱えて干田川へ飛び込んで私を助けてくれました。
episode4
ここにはいろんな思い出があります。野﨑のミキちゃんにはいろいろ世話になりました。当時、鶏の卵は貴重なタンパク源でした。野﨑のミキちゃんは鶏をたくさん飼っていました。私が卵を取りに鶏舎に入ると100羽以上の鶏がおりました。長い蹴爪をしたオスが怒って飛び掛かってくるのを、野﨑のミキちゃんが針金の輪を持って、襲ってくる鶏をかわしてくれている隙に卵を取った思い出もあります。吉井川で野﨑のミキちゃんがシジミをたくさん採って貝殻の山ができて、その山へ上がってよく遊んだものです。
episode5
当時の永安橋は半分が半円状になっていて、「永安橋の上を歩かんと男じゃねえ」と「欄干のいちばん上から飛び込まんと男じゃねえ」と言われていましたがムチャクチャ怖かった。橋の下には鳩がいて卵をよく取に行ったものです。すかさず奥様が「食べるの?」 松王さんは「貴重なたんぱく源だったから食べたし、時々雛になりかけの卵があった」 とにかく鳩はいっぱいいた。観音さんの鳩は永安橋の下に巣作りしていて、鳩の糞は凄くて虫がわいていた。
part3.西大寺会陽
episode1
高校生の時に会陽に出たことがあるが、あの時分は高校生が会陽に出ることは禁止されていた。なぜなら当時はよく亡くなる方が出ていてととても危険だったから。
episode2
高校生の時に我が家にみんなを集めて、風呂に入って永安橋を渡るのだけれど、あまりの寒さに観音さんへ着くまでには、まわしが硬く凍っていて股が切れて血が出ていた。風呂へ入ってから行ってたから、垢離取場の水の方が温かった。吉井川の堤防は垢離取場の辺りには、まだ無かって吉井川の水が直接入っていた。
episode3
あくる朝、学校へ行ったら先生が「松王、出たんか」と、私は「はい出ました」と言おうとしたら声が枯れていて声が出ない。
episode4
本宝木の前に枝宝木を投げたのを、私の連れが取って思わず口の中に入れた。口がいっぱいいっぱいで口が切れて、とうとう血が出だしても口を開けなかった。彼は血だらけになって、枝宝木を取ったことがある。我々の頃にはちょうど口に入るくらいのサイズだった。普通は枝宝木は細くて、まわしの中に隠すのが常道だったのに、彼はよっぽど取られたくなかったので、思わす口の中に入れてしまったのだろう。
epilogue
「松王、相手のいないところへ打ち込め」私に最初にバドミントンの魅力を指導してくださった清見先生、私の全てであります。“努力”という素晴らしい言葉をいただいた小林先生。
私の心の中にはアジアオリンピック(第3回アジア大会東京)の
“EVER ON WORD”
の合言葉が常にあります。
みな様ここまで読んでいただきましてありがとうございます。昭和29年度西大寺高校商業科卒業生の松王清志です。松王は松“尾”っぽではなくてKINGの松王です。色は元々黒い方でしたが最近では地黒の上に、より健康色になっています。体重は卒業時より20kg近くウエイトオーバーしています。バドミントン全盛時代は、いろんな意味でゴジラと言われて恐がられていました。そんなゴツイ男に「夢とロマン」を限りなく与えてくれたバドミントンとの素晴らしい出会いをきっかけに、これまでの私の人生を、昔を思い出しながら書き綴ってみました。
松 王 清 志
美 彌 子
編集を終えて
松王家の二階にはバーがあります。数えきれないほどの洋酒のボトルとバカラのグラス、10年前には棚にはボトルが所狭しと並んでいましたが、今日は少しだけ隙間が広がったようにも見えます。このバーには屋号があり “BAR PINE KING”です。
世界の商人を相手にガット、ラケットの商売の後には、相手を自宅に招き、自らがカウンターの中に立ち、ワイフの料理でおもてなしすることが習慣になっていた様子が想像できます。
色々と飾られている写真には見覚え、聞き覚えのある街や顔がたくさん掛けられています。世界65ケ国を飛び回っていたことは容易に想像できました。
今夜はワイフの料理と、年代物の“ジョニ黒”をいただきながら、日本が敗戦からの復興そして高度成長期へと進んだ時代に、日本人がエコノミックアニマルとまで言われるほど、モーレツに働くことで、欧米に追い付き追い越せと、日本企業が世界に進出していく当時の様子を、松王さんの言葉でリアルに聞くことが出来たことをとはとても興味深い体験でした。
ヨーロッパ諸国の植民地政策が終焉を告げる時代に、日本の商社やメイカーが、独立間もない国々に入り込み、まるでオセロのように黒から白へひっくり返すように、先を争って市場開拓をした様子が手に取るように分かります。
私は子供のころに夢に見た世界旅行は叶いませんでしたが、松王さんのお話を聞いたことで、世界を旅して廻った気持ちにさせられました。
松王さんを町内会の回覧版にコラムで紹介しようと、ほんの軽い気持ちでお話を伺いましたところ、コラムに入りきるような人生でないことにはすぐに気づきました。“SONY”の看板の隣に”GOSEN”ゴーセンの看板を立ててやろう”そんなことを思いつく日本人はそう多くはいないと思います。日本の高度成長期に現れた、まさに時代の寵児が松王清志さんだった思います。
そして、町内だけでなくより多くの人々に郷土の偉人である松王清志さんを知っていただきたいとの思いから筆を執りました。
観光業界では、“地方に眠る観光資源の掘り起こし”という言葉をよく使いますが、観光を超えて“地域に眠る資源の掘り起こし”により、郷土が排出した偉人を一人でも多くの人たちに伝えたいとの思いです。
2021年5月6日 野﨑康弘
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